とある大学生の感想

大学生です

正義とは

正義とは長年における人間の歴史の上で長期に渡って議論され続けてきた。

プラトンの哲人王政やアリストテレスの配分的正義、矯正的正義…等を始めとする様々な正義論が生まれてきた。

 そもそも正義とはあまりにも抽象的であり、相対的である。いわば個人の観念によって正義の出発点が異なるのだ。

それを念頭に踏まえた上で私の正義論を提唱しようと思う。

 

1正義総論

 現代における正義とは、個々の信念に基づいた価値観の表れであり、自然人が価値観の正当性を主張する為だけに生まれてきた言葉である。

いわば「〜べき」論の世界であって、そこには普遍性はなく、時代や文化によって正義の内容が大きく異なっている。

  日本における正義は、主権者たる国民が手続的正義を踏まえた上で、国権の最高機関である国会で立法された法律が正義であるとされている。それが法体系となり、社会規範にもなるのだ。

正義の中身を変えたい場合は法律を改正すればいいし、憲法も改正すればいいわけである。

法や憲法そのものが正義ではなく、制定しようとするその過程こそが正義の実現である。

 世間一般的に考える正義とは正しいこと。

であると考える人も少なくないが、そもそもなにが正しい事であるかは人間には分からない事を念頭に置かなければならないと思う。

今の時点で正義である”べきだ。”とされているだけであり、数十年後には正義ではなくなっていることはよくある事である。つまり、正義は相対的であり、その人個人による価値判断に過ぎないのだ。

つまり、正義とは多数の自然人と共有できる当為であり、個人の価値観に過ぎないのである。

 

2正義各論

 (1)憲法における正義

憲法は改正する際に憲法改正無限説や限界説などの様々な学説があるが、私は日本国憲法の特質である

①自由の基礎法

②制限規範

最高法規

は改正するべきではないと考える。憲法の特質の部分を改正してしまうと、もはやそれは日本国憲法ではなくなり、改正という名における”革命”となる恐れがあるからである。

これは筆者の主張であるが、「日本国憲法の3大原則は?」と聞かれて  平和主義、国民主権基本的人権の尊重。と答える人がほとんどだが(小学校の社会の時間で習う為)、これは”自由の基礎法である”個人の尊重”から生まれた発想である。

憲法の中核であり本質的な”個人の尊重”であることを教えていないのに、個人の尊重の発想から生まれた統治機構を教えた所で理解できるわけがないと思う。 小中の授業で「憲法とはそもそも何なのか?」を

しっかり授業で取り扱うべきだと思う。

(2)社会における正義

 先程は正義の本質について述べたが、社会通念上における正義とは”法である。”とされている。

これは道徳と関係性があるので道徳について述べるが道徳と法の違いは

”国家権力により強制力の有無”である。

一般的に、法は正しいものであり、守らなければならないものだとされているが、本当に法は正しいものであると言えるのか?

削除されたが刑法200条では

第二百条[尊属殺] 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

とされており、直系尊属を殺害した場合は死刑か無期懲役刑が科せられていた。

しかし、刑法199条では

第一九九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

とされており、尊属殺と殺人は差が設けられていた。究極的に言うならば同じ自然人を殺害したのにも関わらず、刑罰の重さが変わるのは憲法14条の法の下の平等に反していないのだろうか??

 結果として尊属殺の重罰規定は違憲とされ、刑法200条は削除されたがこのような法律が戦後の数十年間に渡って、平然と適用されてきたのだ。

また刑法では、刑の時効が完成すると刑罰権が消滅するが、これは本当に正しいと言えるのだろうか?

 このように法では合法であっても道徳的、倫理的には不条理だとされる法令もある。

その点を踏まえた上でもう一度問いたい。

              法とは正しいものと言えるのか?

 社会における正義とは、そこにある当為のルールに従い生活する為の手段であり、本質的な意味での正義とは似て異なるものである。

 

 3おわりに

このように正義とは個人の価値判断に過ぎない意見が、複数の自然人と意見が合致すれば正義となってしまうものである。

なにが正解かは自然人である私達には導けないものであるため、正義が対立した場合に相手の立場に立って考えて、共感する事が大事であると考える。

共感力を用いた理屈こそが我々人間が導ける唯一の正解であると思う。

個人の尊重

私は価値があるだとか、ないだとかの価値判断が好きではない。

例えば老人や障害を持った方に対して「価値がない」という言葉で存在そのものを否定する行為は人権侵害以外の何物でもない。

そもそも憲法13条の前段では「全て国民は、個人として尊重される。」として、人であるならば誰もが尊重されるべきだ。とされている。

少なくとも憲法では、そこに存在しているだけで価値があるという見方をしている。

多様性を認め合う。というのは簡単のように見えて、とても難しいものであるのは私も十分に承知ではあるが(人はみな違うという多様性に基づいた考えによる)人はみな違う。人はみな同じ。という事を主張し続けていこうと考えている。

人権は普遍の権利だと述べる人もいるが、私からみたら「人権なんて普遍的でもなんでもなく、主張しなければ消えてしまうようなべき論に過ぎない」と思う。

権理は正しい。正しいからこそ主張できるんだ。

ということを念頭に入れ無ければならない。

最後に先ほど述べた私が好きな憲法の条文を紹介しようと思う。

個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法13条では、憲法の中核である個人の尊重に着目を置いて幸福追求権を認めており、私は1番重要な条文であると考えている。

 

どんなに他人から否定されたとしても13条は個人を尊重してくれます。どんなに辛い時でも、13条は価値を認めてくれます。

それを忘れないでください。

自分自身

自分という存在がなんなのか

客観的にみて考える事はとても重要だと考える

客観的に考えていく内に自分の言動を内省する事によって、進歩できるのではないだろうか

大切な事は自分を信じる信念であり、行動力である。

何かアクションを起こすということは日々、日常的に行っている事だがそれはとても重要な事である。

なにか行動を起こさない限り、自分が変わることはない。

そして今私がブログを書く行為もまた、行動なのである。

”行動”という言葉を頭の片隅に入れて過ごしたいと思っている。

 

今日はこれでおわりまたあした

自分に自信が無い人ほど優劣を決めたがる話

人は意図してなくても無意識に優劣を決めたがるものです。

これはあくまで僕の主観ですが、自分に自信がない人ほど他人を勝手に査定して、まるで自分がオークションの競売人であるかのような立ち振る舞いを見せる時があります。

何故、自分に自信がないのにも関わらず他人への関心は大きく、人に優劣を付けたがるのか僕は不思議でなりません。

自分に自信が無いのであるなら他人に干渉してる時間があるならば自分の内省的な部分に目を向けた上で、自分磨きをすればいいではないか

 と、僕は個人的に思います笑

当たり前ですけど人は皆同じではありません。

それぞれに常識や価値観などの考え方があります。

その人からみた”幸せ”はその人にとって”幸せ”ではないかもしれない。

 周りの人から観て、幸せとはいえない生活だったとしても、自分が幸せならそれでいいんです。

他人の評価で人は生きているわけではない。

大切なのは自分自身の中にある幸福度です。

 

今日はこの辺で終わります

ではまた明日〜。